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綾部市議会議員 安藤かずあきの活動日記です。

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手紙

2月21日(火)3月議会が始まる。20日には議会運営委員会で、市長から議案の提案説明があった。
それぞれ、日頃提案したり、地域や団体の要望を聞いて、提案していることが予算化されたり、条例化されたりしている。まだまだ細かいところまで読み込んでいないが、配慮してある内容だと思う。

まだ、提案した内容が、検討を加えられたのだろうけれど、以前と同じ額で計上してある案件もあり、事情を聞いてみたいと思うが、時代は動いているのに、と言ったところか。
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で、この時期となると、広報あやべの縮刷版を読みふける時間が多くなる。「温故知新」古きを訪ね新しきを知る。
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【昭和31年の綾部市政広報:既に都市計画道路は計画されている】
この広報綾部縮刷版は、昭和56年に市役所の企画広報課(当時)から発行されている。K広報係長(当時)が発行されたのだろう。綾部町の広報から綾部市誕生を経て、昭和56年まで、広報紙を縮刷して編集してある。これを読むとよくわかる。

今熱中しているのは、都市計画決定の経過だ。

Nさんから都市計画マスタープランの策定に関わって、お手紙を頂戴した。と言うのも、私の数日前のブログで、まちづくり懇談会の件で書いていたら、お手紙を頂戴したのだ。丁寧なお手紙でいくつかのご指摘を頂戴した。

その1点は、西町沿道区画型街路事業計画について、既に人口減少期、購買力が減退している地方都市にあって、アイタウンの事業は既に時代遅れだった。もっと長期的な発展を予期させる市のグラウンドデザインが必要だったのではないか。と言うご指摘だ。

そもそも、綾部市の都市計画事業は、昭和30年4月10日。1郡1市の綾部市が誕生して以来、市街地中心部の街路計画等を中心に検討が開始され、昭和30年10月31日京都府における京都都市計画地方審議会において、街路計画が都市計画決定され、その計画が大元となって、今日の都市計画事業は動いている。つまり、その頃の都市計画道路の線引き、今から52年くらい前に街路計画は決まっていたのだ。

それに基づいて、駅前の土地区画整理事業が始まった。駅前のロータリーもその頃事業開始(今のロータリーではない。)そして、丹波大橋まで続く都市計画221号線(福知山綾部線)の都市計画事業は開始された。

「どうして綾部の街の真ん中を貫くような道路計画だったのだ。」とのご指摘も。それなら、明治時代鉄道敷設の計画があったとき、由良川右岸を通過する鉄道計画をどうして左岸に持ってきたのだ。と言いたくなります。

もっと広い都市計画を構想するのなら、明治時代に鉄道敷設を由良川右岸の構想があったにもかかわらず左岸へ持ち込んだその当時を恨みたくなる(グンゼの引き込み線のこともあったのかもしれませんが)。

当時の町の大きさを示す図面を見てみると、綾部駅の北側は湿地帯で田畑か桑畑。あるのは、グンゼ・神栄の工場くらい。広域農道の発想も当時はありませんでした。広域農道が動き始めたのは、昭和45年以降じゃないかな~(羽室さんの時代かな。)

西町沿道区画型街路事業は、西町近代化事業を進めたい商工会議所の意向が強いものがあった。もちろん、昭和31年当時の都市計画決定された市道があったが、商店街の近代化事業と区画整理事業をドッキングさせ、事業を推進された。これを成し得たのは、当時の卓越したリーダー。塩見清毅氏。西町商店街を近代化させるため、地域住民をまとめ、行政に働きかけ、私利を捨てて大きな町のグラウンドデザインを掲げ、成し遂げられたのです。

西町商店街に対する種々のご意見はあると思うが、当時の関係者の血のにじむご尽力を忘れるわけにはいかないと思う。「言うは易し行うは難し」だったと思いますよ。

その当時は、西町からグンゼ白瀬橋に至る都市計画事業を推進するのに関係者は心血を注いだ。むしろ東西方向の本宮豊里線は後回しの感もあった。

グンゼ前のレトロな街づくりの道路。「大企業奉仕の道路」だと共産党市議からの批判に耐えながら、きっと将来は綾部らしい町並みができると頑張ってきた関係者。

西町踏切は、車の大渋滞で今は苦情がいっぱいだが、もともと、狭い市道。JRは踏切拡幅に難色を示した。しかし、莫大な工事費をかけて、踏切拡幅ができた。人々の回遊性はすごく高まった。

市役所やITビルなど中心街に立地することで、どうにか回遊性が維持できている。まだまだ仕掛けが足らないとは思うが。

私は、今日まで進めてきた都市計画事業に大きな齟齬は無かったように思う。大きな齟齬があるとしたら、明治期の鉄道敷設における広域的視点だったと思う。しかし、その現実がある今日において、そして制約された都市計画のなかにおいては、可能な限りの街づくりをしてきたと考える。(財政の制約を受けた本市の実情を勘案しても)

そしてこれからの20年を構想したとき、客観的情勢を冷静に判断しなければならない。本市は確実に人口減少局面に至ると言うこと。少子高齢化の進行や産業全体の低迷期を迎える。今後町はコンパクトシティ化に向かうだろう。

今回の都市計画マスタープランに期待するものは、多くの市民が口にされる、市街化調整区域における建築制限の解消・緩和を目指した取り組み。市街化区域における用途指定も時代に合わせた区域指定にする。都市計画街路は、本宮豊里線の西延伸の継続。青野延線の西延伸の継続、安場田野線の法線変更による国道173号線・府道広野綾部線と接続する綾部南回り線の確保(上延・大島方面へのう回路)ではないだろうか。

新市街地ゾーンの井倉・青野・味方の公共下水道化は急がねばならない。広域農道沿線の農地の転用は都市政策として進めたい。特に、大島~高津は優良農地はあまり無い。いっそ、沿道ショッピングが可能な店舗立地を促進する。広域農道沿線の公共下水道を促進することによって由良川左岸の広域農道沿いの開発はスムーズになろう。(Nさんも指摘しておられる)これまで、広域農道と言う農林省の規制がかかって開発できなかった区域にも今回は手を入れる必要があろう。ただし、産廃業者が立地したり、パチンコなど好ましくない店舗立地は規制の対象になることは言うまでもない。

いま深刻になりつつあるのは、市街地における古い木造住宅の売買が市道の4メーター接道条件によって、制約を受けていることだ。深刻な問題だろう。建て替えすらままならないのだから。何らかの手立てを講じなければならない。新たな過疎を生む恐れがある。

Nさんは、公園や都市施設に対しても適切なご指摘をいただいている。「上杉の運動公園」がなんであんなところにあるのか。市民には不便。紫水ケ丘公園も高台にあって高齢者には不便。清山荘・図書館・市民センター・中丹文化会館・井根山公園・藤山公園等の大型公園施設が脈絡なく作られている。

ご指摘の通りだ。しかし、各施設をつくるにあたってはそれぞれ経緯があることも事実で、結果としてそうなっていることにご理解も得たいな。

たとえば、上杉の運動公園。国庫補助や府の有利な補助がもらえる。でなければ綾部市は国体を辞退するしかない。そんな背景であの場所が決まった。元々、里町に建設も想定されていた。タイムリミットと言ってしまえば何と計画性のないことか。と指摘されようが、上杉のあの土地は、国道27号の拡幅工事で、建設省が、田畑を瓦礫で埋め立て土砂の置き場としていた場所。数年を残して用地買収に手間取らず、造成工事にも手間取らない土地。有利な補助金で建設できる場所。谷口市長の苦汁の決断だったようだ。

中丹文化会館。時の京都府副知事N氏が政治的に利用したとも。S助役が出馬するなら、計画中の文化会館の計画ストップも。当時そんなうわさが流れた。事実かどうかは不明だが。

図書館。金のない綾部市、さてどうしたか、出来て数年しか経ていない旧綾部簡易裁判所。裁判所が移転すると同時に大蔵省と掛け合って、安く分けてもらった。改造・増築し、新町に図書館ができた。それまでは、市民センターの一室を借りた図書館だった。

西部グラウンドや東部グラウンド、淵垣グラウンドなど全体的にどうして山や丘に公共施設が張り付いたのか。農地を潰すことができなかった。地域の理解が得られないことに尽きる。国庫補助を受けて、農地造成・圃場整備したうえに、グラウンドなど許可が下りるはずもなく、取得単価の安い山林に整備せざるを得なかった。と言うことではないだろうか。

市街地の都市公園の整備は、紫水ケ丘公園は、昭和30年当時菊人形を味方で開催した。その隣接地に造成しようと構想されている。藤山公園は、NHKがテレビ塔を建設した機会に、管理道路を利用して頂上にJCが平和の鐘を設置し、そこを公園化したこと。八幡児童公園も、昭和30年ごろ、神宮寺に市営住宅を建設し合わせて整備したもの。井根山公園は、市制記念の機会に、藤山の平和の鐘に対比して、マユピーを建立し、平和塔と結んだ平和のトライアングルを構想したこと。
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【平和塔の頂点の鳩は、綾部市職員労働組合が寄付している。綾部はそんな町だ】Nさん下水道事業の遅れも指摘されている。
これはその通りだが、財政的にどうにもならなかったことは事実なのだ。昭和57年谷口市長になって初めて手がつけられた。福知山は、あの28災をはじめとする市街地の軒下までのたび重なる浸水被害を受け、どうにもならないと下水から手を付けた。上水道は、市が施工するまでもなく陸軍福知山連隊の給水が必要だった当時から、軍を優先する形で上水道敷設が進んでいる。そこにインフラ費用の大きな格差が生まれる。舞鶴だって、海軍のための給水が自治体負担を緩和してきた。

都市によって、成り立ちが異なる。台所も異なる。大正時代はグンゼが隆盛を極め、綾部が福知山を合併しようと勢いがあった時代もある。戦後大きく変化した。軍用道路だった国道27号が整備は国道9号の整備に遅れ、あの革新府政の蜷川虎三氏が陸軍の飛行場を譲り受け、長田野工業団地を造成した。舞鶴は海上自衛隊と日立造船で発展した。一方綾部市は、28災で田畑・インフラに大変な被害を受けながら、合併に次ぐ合併。脆弱な財政は窮乏を極め、2度にわたって財政再建準用団体に。その後の体力も無理はできない。人間と同じだ。遅れを取り戻そうとちょっと無理をするとすぐに倒れてしまう。そんな都市だと言うことを認識しながら、だからどうする。と考えねばならない。

「物から心」と言われて久しい。「心」で飯は食えないかもしれないが、日本人の持つ「清貧の思想」は、綾部の精神性・文化性を高める。

「20年後の綾部」必要最低限の都市施設の整備は進めていくにしても、大きな変化は困難を極める。

第2次綾部市総合計画(昭和56年羽室市長)では、「田園文化都市」を歌った。そして今また、「ゆったりやすらぎの田園都市綾部」。綾部は、この線で良いのではないかな~

ま~一度市民の皆さん、それぞれ綾部を想って藤山公園に、若宮神社の方から、おにぎりをもって徒歩で登って、のんびり綾部を鳥瞰し、短歌の一つも読んでみて、午後3時くらいに下山する。今度は、南が丘「波多野鶴吉の銅像を見て、古を偲ぶ。5時ごろには町の赤ちょうちんで1杯ひっかけ、ぶらぶら帰宅する。また、違った発想が生まれないだろうか。?

ユニクロがなくても、ゲーセンがなくても、今の若い世代は車で行動する。商業施設は福知山には勝てない。でも、ユニクロがなくても生活には困らない。

教育環境はしっかりと整え、立派な綾部人を育てる。今京都府立の高校の校長は47人中7人が綾部高校卒業だとか。綾部人は「志高の人」が多い。永井幸喜さんだけではない。多くの先人先輩が綾部を想い綾部を愛している。綾部に帰った人も、綾部に長く住んでいる人も、綾部は「良いな~」と思えるようコミュニケーションを大切にしたいな~。
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by ando-ayabe | 2012-02-22 12:17 | 議員政治活動 | Trackback | Comments(0)