傍若無議会   

2012年 01月 12日

1月11日(水)
午後になると、郵便物が届く。もうお正月年賀状は日も過ぎてこなくなった。代わって届くのはダイレクトメールや請求書・口座落としの通知の封筒などなど。それに混じって届いた「自治日報」(自治体関係の業界紙のような週1回発行される新聞)1月6日13日号の≪自治≫欄(コラム・主張のような)元総務大臣片山善博氏が筆者となって「傍若無議会では困る」と題して、昨今の橋下大阪新市長と議会に対する辛口論評が掲載されている。

書き出しが辛辣だ。「何とも議会の影が薄い。昨年11月の大阪市長選挙で当選した橋下新市長の発言を聞いての印象である。」と書きだし「橋本新市長の物言いには明らかに二つの勘違いがある。」と。

一つは、なんでもできると発言する橋下市に「いくら人気の高い市長でも、一般市民同様『現行法』に従わねばならないと言うこと。悪法でも法は法ということ。」二つ目には「議会の存在。二元代表制を採用しているわが国自治体では、知事や市町は決してオールマイティではない」ということ。

傍若無人とは、傍らに人が無きが如く自分勝手に振る舞うことを言うが、片山氏は「人」のところを「議会」に置き換え、橋下氏を批判している。

そもそも二元代表制の本家アメリカ。大統領の権力を分散させるために議会がある。
強い個性をもつ首長が強引に政治をリーダーした場合には、独裁に陥ることになる。その時に議会の役割が重要になるはずだが、大阪市議会の顔が見えない。と嘆く。

そして大阪市議会に関わらず全国の市議会の存在感が薄いと。なぜかを片山氏は「会派拘束が故に、議員ここの意志や考えが表に出てこない」と分析。会派拘束は世間ずれしており、住民の共感を得るものではない。と主張。「会派」などと言うわけのわからないしがらみに囚われ議員自身が進んで、「猿轡」をはめているような議員は市民から陰で、嘲笑・揶揄されていると批判している。

ここまで読んで、少し「カチン」ときた。

おりしも「創政会」(市議会の私の所属している会派)の会報を新聞折り込みをしたばかり。
はてさて、本当に会派は不必要か?

本市議会議員は会派のしがらみにとらわれているのだろうか?

市民からは、保守系会派「民政会」と「創政会」は同じ考えの人たちではないのか?と聞かれることもある。

しかし、会派活動によって、調査研究活動を高めることによって、議員個々の政策能力や資質を高め、議会における政策提案や提出議案に対する研究も深めることができる。また、議会は首長の一人の決定権だけではなく、「数」の問題として決定件が付与されている。政策実現のためにも「数」が必要なのだ。

たとえば、水道料金の引き下げや国保料の引き下げ、教育費の充実など、あまりに時代錯誤で、将来の市民への負担を無視し「今」さえ良ければよいといった考えの提案がなされる時がある。(常に出されているのだが)そんなとき、その提案の可否を決めるときに、議員個々が誤った情報に基づいて誤った判断がなされる恐れもある。シッカリと調査研究し、最後は議員個人の判断で可否を決定することが最善だ。今日まで、会派でそのような判断を迫られても、議員個々で意見が割れることも、しがらみにとらわれるようなこともなかった。と記憶している。

確かに、過去には議会の「会派」に対する首長の強力な「ネゴシエイション」が無かったと言えば嘘になる。私が議員になった経過の中では、そのようなことが議会であるいは首長との関係の中で発生することが無いよう、議会の権能を高めようと市議への道を選択したことも事実だ。

少なくとも私が議員になってからは、そのような案件は無い。橋下氏としても、議会が最終決定機関であることは百も承知しておられる。

市民の判断は、平松市政のスピード感の無さに不満をもち、橋下市長を選択した。市議会は、市議会として、橋下市長の提案の案件にシッカリと判断をすることが求められているので、疑問点は議会でシッカリと質問し、議会の判断を下せばよいのではないか「粛々」と

そしてその決定に対する市民への説明責任を果たすことも当然だ。裏取引のようなことはせず、シッカリと判断し、その上で、市民にその判断の是非を問えば良いと思うが。
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by ando-ayabe | 2012-01-12 11:16 | 議員政治活動 | Trackback | Comments(0)

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