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綾部市議会議員 安藤かずあきの活動日記です。

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綾部小学校運動会

9月18日(土)
今朝から晴天。綾部小学校の運動会。午前9時に綾部小学校へ。
今年も元気に子ども達。大きな声で応援合戦から始まる。

ゆっくり応援したかったが、11時から福知山で叔母の葬儀告別式があるので、10時に退席させていただいた。帰宅してシャワーを浴びて福知山へ。報恩寺のカトリック教会へ。12時半に葬儀は始まった。

協会から頂戴した葬儀のパンフレットに、

『何時までも残るものは信仰と希望と愛です。』
『その中で一番すぐれているのは愛です』コリント13:13

と書かれていた。キリスト教は子供のころ丹陽教会の日曜学校へ行っていたときにしかかかわりがなかった。

親族を代表してご挨拶をして福知山の斎場でお別れをした。
午後3時半帰宅して今日のスケジュールを終え、ゆっくりする。

《ある男性の愛情がA女からB女に移った時、件の男性が、A女は自分の愛情に値しなかった、彼女は自分を失望させたとか、その他、似たような「理由」をいろいろ挙げてひそかに自己弁護したくなるといったケースは珍しくない。
 彼がA女を愛していず、A女がそれを耐え忍ばねばならぬ、というのは確かにありのままの運命である。
 ところが、その男がこのような運命に加えて、卑怯にもこれを「正当性」で上塗りし、自分の正しさを主張したり、彼女に現実の不幸だけでなくその不幸の責任まで転嫁しようとするのは、騎士道の精神に反する。恋の鞘当てに勝った男が、やつは俺より下らぬ男であったに違いない、でなければ敗けるわけがないなどとうそぶく場合もそうである。
 戦争が済んだ後でその勝利者が、自分の方が正しかったから勝ったのだと、品位を欠いた独善さでぬけぬけと主張する場合ももちろん同じである。(中略)
 同じことは戦敗者の場合にもあることで、男らしく峻厳な態度をとる者なら――戦争が社会構造によって起こったというのに――戦後になって「責任者」を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、敵に向かってこう言うであろう。
「われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因となった実質的な利害のことを考え、他方ではとりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任――これが肝心な点――にかんがみ、ここでどういう結論を出すべきか、いっしょに話し合おうではないか」と。
 これ以外の言い方はすべて品位を欠き、禍根を残す。国民は利害の侵害は許しても、名誉の侵害、中でも説教じみた独善による名誉の侵害だけは断じて許さない。
 戦争の終結によって少なくとも戦争の道義的な埋葬は済んだはずなのに、数十年後、新しい文書が公開されるたびに、品位のない悲鳴や憎悪や憤激が再燃して来る。(中略)
 政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。政治的な罪とは――もしそんなものがあるとすれば――こういう態度のことである。
 しかもその際、勝者は――道義的にも物質的にも――最大限の利益を得ようとし、他方、敗者にも、罪の懺悔を利用して有利な状勢を買い取ろうという魂胆があるから、こういうはなはだ物質的な利害関心によって問題全体が不可避的に歪曲化されるという事実までが、そこでは見逃されてしまう。「卑俗」とはまさにこういう態度をこそ指す言葉で、それは「倫理」が「独善」の手段として利用されたことの結果である。》

今から90年位前に政治家が語った言葉だそうです。産経新聞阿比留記者ブログから転載しました。
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by ando-ayabe | 2010-09-18 21:40 | 議員政治活動 | Trackback | Comments(0)